最強メンタル、みたいな言葉が嫌いになった
休職前、一時的に「仕事がうまく行く。楽勝じゃん。」と思って、表面上上機嫌な気分が続いていた時期があった。元々合わない仕事を続けているような節があったところもあったのだが(本当にそうかはわからない)(と、言いたい)、マインドフルネスや認知行動療法、心理的安全性+α系の自己啓発系書籍を読み漁って、それぞれの本に書いてあるノウハウを実行していったのだ。
結果、どうなったか・・・というのはうまく言えないのだが、なんか違うな、という気がしてきたのだ。
なんか、「裏技を使ってゲームをしている」ような気になったのだ。そして、そのような気を感じてきた頃、おそらくその裏技では対処できない出来事が人生に起こり、仕事を休んだ。
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大学の頃。「自由」という言葉は「自ら」に「由(よ)る」という意味を持つ、と教わったことがある。これが定義として非常に納得がいった。
しかし、これはもしかしたら自分の信念を表しているがためにそう感じたのではないか、と最近考えている。
もし、「自由」を上記のようなものと考えると、では自分とは何か?という問いが生じる。
そして、最近「「自由」とは、揺らぎ続ける不安定な自分に委ねることだ」という考えに触れた。
これについて、考えている。
心理検査を受けた
去年の暮れから心身に不調があり(主にメンタル)休職しているのだが、診察で心療内科に訪れた際、せっかくの機会だと思い兼ねてから気になっていた心理検査を申し込んだ。そもそも心療内科・精神科の予約は取りにくいのだが、心理検査はさらに予約枠が満杯で、去年の申込時に空いている日にちは最速で今日なのだった。
自分が受けたのはWAIS-IVというもので、内容は例えるなら大人向けの計算ドリルを大量にやらされるといった感じだった。コミュニケーション能力などもテストされるのだろうか、と漠然とイメージしていたが、どちらかというと計算能力や語彙能力の分析を通じて、知的能力の向き不向きを調べるためのものであると担当の心理士から教えてもらった。全体で大体2時間くらいかかり、そこそこ疲れた。集中して仕事をした気分だった。
普段の心療内科の通院はかかりつけ医と毎回近況報告+薬の調整の相談を2、3分程度するくらいなのだが、今日は検査が終わった後に10分程度心理士と質問を相談することができた。
職場のストレス過多で現在少し休んでいる、という話をしたのだが、あなたは平均より上のレベルの知能を持っていると思う(あくまで印象との留保つきで)との前置きをもらった上で、職場で特性の向き不向きを理解してもらえないと、コミュニケーションに支障が出たり、対人緊張が生じてしまうので、心理検査の結果はそういったことを考えていく手助けになるかと思う、とのコメントをもらった。
文章に起こそうと思うような良い会話をしたと思っていたのだが、帰ったら忘れてしまった。久しぶりに優しい?話しぶりで接してもらえたので、安心できるような体験だったかもしれない。(というか、安心させるような配慮をしてくれたのかもしれないな、とも時間が経って思った)
心理士のデスクにおそらく臨床心理に関連する本が置いてあり、仕事中に読んでいるのかなと邪推した。半分研究のような仕事なのだろうかと思い、なんとなく羨ましいなと感じながら会計を済ませ、病院を出た。
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帰ってスプラトゥーン、サーモンランたつじん+2から降格する。
晩にキムチ鍋を作って食べた。
ゲルハルト・リヒター展に行った
年始に用事があり、名古屋に行った。
その帰りのついでに豊田市美術館でやっていたゲルハルト・リヒター展を訪れた。
東京国立近代美術館で開催されていたときにも行ったのだけれど、斎藤環の解説(評論?)を読んで、もう一度行きたくなったのだ。
2回見ると少しは作品の全体の理解が少し深まった気がする。しかし「アウシュビッツ」の4枚の写真は凄い。大変な写真だと思うのと同時に、目が吸い寄せられて、引っ付くように眺め続けていたくなる感じがする。
斎藤環の文章を読んで、実物を見ながら小難しいことを考えたいという動機で訪れたのだが、実際は色々な作品に再び触れて、「リヒターは何を考えてこんなにも毎日絵を描いているのだろうか」といういささか茫漠とした感想が土産となった。(行ってよかったと思う)
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これを描いているのは上記の翌日のことで、昼過ぎまでスプラトゥーンをやって、うどんを食べた後である。